レミオロメン「花鳥風月」が指し示す生活のあり方について


「何だか不思議だよね 生きているって」
「そうさ色々だよね 生きているって」(花鳥風月)
 レミオロメンのアルバム「花鳥風月」のタイトル曲だ。僕は、ずっと、歌詞に出てくる「色々」という言葉にひっかかっていた。その「色々」がどのように「色々」なのかを歌詞にしてほしいのにと、気に入らない気持ちがあった。素直でひねりのない歌詞を、にぶいのではともおもった。一方で、そのにぶさに惹かれる気持ちもあった。とくに、「ソラニン」を読んだ後からその言葉に対して肯定的になった。

 
映画にもなったこのマンガでは、フリーターでバンドをやっている眼鏡男子が交通事故で死ぬ。その後、付き合っていた女が、楽器もできないのにバンドをやりたいと言い出して……。あだち充のマンガ「タッチ」になぞらえると、野球の代わりにバンドがあり、和也の意思を引き継ぐのが達也ではなくて恋人、という話だ。
 主人公たちは、大学を卒業して少し経ったくらい。モラトリアムはそろそろ終わるけどまだ夢を追っていたいし、働きたくない。かといって、お金も続かない。さて、どうしようかと悩んでいる。
 レミオロメンの歌詞は、「ソラニン」の登場人物の考え方と比べるとずいぶんと、違うものに見える。 


「今日もめざましテレビの占い 大事な人の星座を
見ている時間が幸せ 頑張ろうって思えてくる」(Tomorrow)
「出会えた事 山も谷も 普通の日々ありがとう」(ありがとう)
「泣くよりも笑い 憎むより許す」(花になる)


 もちろん、歌詞の中から明るい言葉を恣意的に抜き出しているだけだ。同じ曲の中には暗い言葉も、並んでいる。どんな歌詞なのかは後で抜き出す。それでもこれらの言葉をはじめて聞いた時、幸せな気持ちになるような、言葉だとおもった。レミオロメンの歌詞は、生活のこまごまとした事柄のなかに幸せを見出そうとしている。そこが、「ソラニン」の登場人物の考え方と違うところだとおもう。


「等々力から年越しそば 買って帰って公園よって
歩きながら奇跡の様な 夕日を見たね 綺麗だったね」
「そばは茹で過ぎて柔らかくて
君はごめんねって笑ってた」(大晦日の歌)


 「ソラニン」には、登場人物が普通の生活を嫌悪しているように見えるシーンが、いくつかある。女に就職先が決まったと告げられた男は、こんなことを言う。
芽衣子さん、ホントに会社員になっちゃうの? 芽衣子さん、全然興味ない職種就こうとしてるっしょ? だって芽衣子さん、お茶汲んだり顧客管理するために生まれてきた訳じゃ絶対ないじゃんか。」


 そのような考えから、働くことを避けた結果として、お金がなくなって不安になっている。2人の同棲生活がずっとギスギスしている訳ではない。喧嘩をしても、決定的なところには踏み込まない。数行前に挙げた「会社員になってホントにいいの?」という男の問いかけに、女は「…あんまりあたしに自分重ねないでよ。…今日はもうあたし、自分ち帰るね。」と答える。
 逆にこんな場面もある。女が「種田は誰かに批判されるのが怖いんだ!! 大好きな大好きな音楽でさ!!」と問い詰めると「一緒に死んでくれるの?」と男は答える。しかし、すぐに「冗談」だったとそれを打ち消し「ちょっと散歩に行ってくるよ。」と部屋を出ていく。


 相手が踏み込んだ言葉を言うと、すぐに離れようとする。真面目なことを言うとすぐに「冗談」と言い足す。その若者らしい距離感。モラトリアムな言動。死にオチ。物語は、そういったありきたりな部分の組み合わせで出来ている。おそらく意図的に。
 物語は、男が死んだ時点ではまだ中盤。そこから女の内省がはじまっていく。漠然とした幻想と現実のギャップは埋まらないまま、男は死んでしまった。女は、生き続ける。ありきたりな死にオチの後に続く膨大な時間の中で、避けてきたものと向き合う。ホントはやりたかった楽器。生きている時には出来なかった男との対話。そうした時間を経て、〈今になって思うと、半年前までのあたしは、東京で、どうにか生き抜こうとしていたんだなぁ。いつまでもこのままって訳にはいかないな。〉と、少しずつ前を向きはじめる。


 レミオロメンに話を戻す。基本的にアルバム「花鳥風月」は暗いか明るいでいうと、明るい言葉が並ぶ。そのなかで、次に抜き出すような不穏なフレーズが顔を出す。それは、「ソラニン」の登場人物がいくつかの場面で問いかける「ホントに?」という言葉と同じように暗い。でも、そのような歌詞は見え隠れする程度。たぶん、それは意図的なことなのだ。


「今日 作り笑いしてる自分に疲れてしまった」(Tomorrow)
愛する人がどんどん増えてく
でもいつか減ってしまうのかな人生」(ありがとう)
「諦めや悲しみと どう付き合ったらいい」(小さな幸せ)


 明るい方ばかりを見ようとして、できるだけ暗い方を見ないでおこうとすること。このような肯定の仕方は力業だとおもえる。それでも、きちんと暗い言葉を歌っている。言葉を短く区切ればかなり辛辣な言葉もあるのに、全体としては明るく聞こえる。そこが僕は好きだ。
「色んなもんを引き受けたり委ねたりしてるけど
身の程知って愛を込めて日常を生きていこう」(君は太陽
「馬鹿をみるでも信じていたい
昨日今日明日と同じ日はないさ」(恋の予感から)


 ここまで「そうさ色々だよね 生きているって」という言葉にこだわってこの文章を書いてきた。アルバム「花鳥風月」に共感してしまうのは、「ソラニン」での男女の生活で描かれることのなかったものを指し示している気がするからだ。普通の生活を送る、普通の境遇を生きる人々を肯定するような言葉が歌われている。


 「ソラニン」の登場人物たちが悩んでいるものの正体は、普通に日々を送り、生き延びるためだけに仕事をする大人になることへの怖れだ。そういった恐怖は若い人たちだけのものではない気がする。年をとったらとったで「オレの人生はホントにこれでよかったのか?」というような形で、おそってくるような気がする。 でも、そういった怖れを、にぶくなることでやり過ごすことも悪くないのではないか。僕は、そうおもいたい。「ホントに?」という声に耳をふさぎながら、それでも幸せを求めてしまうことを肯定したい。もしも、僕が「ソラニン」の登場人物のように「漠然とした幻想」にとらわれてしまったら、「花鳥風月」のにぶい感受性でもって生活を肯定するつもりでいる。