鋭く内省的な視点を持ったドキュメンタリー『CHRONICLE』について

『CHRONICLE』(フジファブリック)レビュー
タイトル:鋭く内省的な視点を持ったドキュメンタリー『CHRONICLE』について


 フジファブリック志村正彦は昨年12月25日、29歳の若さで亡くなった。生前に発売された4作目『CHRONICLE』。今作について志村は「ロッキング・オン・ジャパン」09年5月号のインタビューで


〈完全ノンフィクションですよね。だからこれ聴けば、僕の私生活すべてわかると思いますね〉


と語っている。『CHRONICLE』がこれまでのフジファブリックと違ったのはそこであった。


〈君のその小さな目から大粒の涙が溢れてきたんだ
忘れることはできないな そんなことを思っていたんだ
東京の空の星は見えないと聞かされていたけど
見えないこともないんだな そんなことを思ったんだ〉


 初期の代表曲「茜色の夕日」のフレーズを聴くと、実体験に基づいているような印象を受ける。その意味ではノンフィクションに近いのかもしれない。『音楽とことば あの人はどうやって歌詞をかいているのか』で、志村は次のように語っている。


 〈自分の衝動をそのまま歌詞に刻めたということにおいては、この曲に勝るものはないです〉


 しかし、よく聴いてみると「溢れてきたんだ」「思ったんだ」と過去形が多く使われていることに気づく。過去にあった出来事を、現在の自分の視点から見つめているのだ。そのため、表現される感情の沸点は高いが、どこか醒めていて距離があるように僕には思える。


〈僕に「愛してる」とか「好きだ」みたいな歌詞がない理由というのは、自分でもわかってます。それは僕の中にある醒めた客観視、「んなこと言われても!」って考えのせいなんですね〉(『音楽とことば あの人はどうやって歌詞をかいているのか』)


 客観視するために、過去の出来事を今の視点から見つめている。書き手と作中の登場人物がダブって見えるのに、どこかドライで自己愛におぼれていない。だから、歌っている人間ではなく、聴いている人間が感傷に身をゆだねることが出来る。それには、もう一つ大きな要因がある。志村の声だ。


ザ・イエロー・モンキーのトリビュート・アルバム『THIS IS FOR YOU THE YELLOW MONKEY TRIBUTE ALBUM』で、フジファブリックは「FOUR SEASONS」をカバーしている。曲単位で考えると志村が生きていた時に発売された最後の作品になる。ザ・イエロー・モンキーのボーカリスト吉井和哉の声は、奔放な女性関係、生育暦といったキャラクターとの関係が濃密だ。それに、こんな声ばかり聴いていたら一般的な道徳を何とも思わなくなりそう。だから、カバーをする歌い手には、解釈のスマートさや技術力とは別の魅力や物語が求められる。


 ここでの志村の歌い方は、吉井の歌い方とはまったく違う。小さな子どもが、だだをこねているような、感情という感情を欠落させた歌い方をする。それでいて、志村の歌声から感じる印象は、吉井の歌声から感じたものと極めて近い。つまり志村は、酸いも甘いも知っているような吉井の声を、何も知らない子どもの無垢さと残酷さで表現したのだ。
 『CHRONICLE』の「ノンフィクション」化に話を戻す。「バウムクーヘン」や「Clock」といった収録曲からわかるように、これは志村の独白のアルバムだ。


〈僕は結局優しくなんか無い
人を振り回してばかり
愛想をつかさず 僕を見ていてよ〉
〈怖いのは否定される事〉(バウムクーヘン
〈いつも気がつけば 気がつけば
孤独という名の 1人きり〉(Clock)


 このアルバムでは過去形の言葉がほとんど出てこない。今現在の気持ちを歌っているから、歌と作者自身の人生との距離が近い。その分、生々しくなった。過去を相対化することは、簡単ではないけれど、できないことはない。ずっと僕は、フジファブリックが自己愛やモラトリアムといったモチーフから距離を取れる理由を、過去の出来事を歌っているからだと思っていた。
 では、彼は醒めた視線を手放したのだろうか。僕には、そうは思えない。「孤独」「否定されるのが怖い」といった、ありきたりな感情から歌詞が作られているのに、他のどのアーティストとも似ていない。並みのバンドであったら必ず陥ってしまう、独白に付き物のナルシシズムがないからだ。


〈チェッチェッチェッ うまく行かない チェッチェッチェッそういう日もある〉(バウムクーヘン
〈イチニサンとニーニッサンで動いてくこんな日々なのです〉(同じ月)


 このようなフレーズが歌詞に紛れ込んでいるため、志村は、苦悩しているふりをして本当はニヤリと笑っているのではないかと疑いたくなる。同時に、かわいらしい声やどこかとぼけた歌詞のなかにも、作者の独白の重さを感じとってしまう。歌詞の客観性とサウンドのヌケの良さが、切なさに浸ることを拒否するから余計に、「孤独」「気がつけば 僕は1人だ」といった言葉が耳から離れない。ただの心情の吐露のように見えて、そんなものはこの表現のなかの何処にも存在しないのだ。あるのは自己の存在を見つめ続ける鋭く内省的な視線だけだ。その鋭い視線を、今ここにいる自分に、こんなにも鋭く向けることを課した人間を、僕は他に知らない。こんなバンドは他にいなかった。その存在感は、リスナーの心から彼が忘れ去られることを拒むことだろう。


 フジファブリックのニューアルバムが7月末に出る(※)という。今回のアルバムで、志村は過去から現在へと視点を移した。今を徹底的に見つめたその先に、彼がどんな世界を見たのか。ぜひ、知りたい。


追記
※この文章は2010年春頃に書いたもの。アルバム『MUSIC』は2010年7月28日に発売されました。